さようなら、憂鬱な木曜日

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さようなら、憂鬱な木曜日

サラリーマンの投資ログなど

勉強ができる人のノートの取り方について

生活 生活-ノートの取り方

小学校から大学まで、自席について教師又は教授の講義を聴きながら板書をノートに取る、ということをほとんどの授業でやってきたわけだけど、社会人になって、ようやく「本当のノートの取り方」についてわかってきた。
私は学生の頃、すごく勉強ができる人は、おそらく家に帰って血の滲むような努力をしているのだろうと思っていた。しかし、ずっとあることが気にかかっていた。高校生の頃、クラスでトップクラスの秀才だった奴にテスト前の勉強の仕方を聞いたところ、彼は「教科書をさらっと読んで復習するだけだよ」と答えたのだ。私は、それを聞いてもあまりピンとこなかったのだが、今になってようやく彼の言っていた意味がわかる。おそらく彼は「勉強ができる人のノートの取り方」をしていたのだ。

ちなみに、私が提唱する理論は、別に板書とは別の内容をノートに書くとかそういう工夫の仕方ではない。最近、東大生のノートの取り方とかが話題になったが、ノートの中身が全く一緒でも、できる人とできない人のノートの取り方はぜんぜん違うということだ。

まずは下図を見てもらいたい。

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■勉強ができない人は、板書を作業としてノートに書き写す(A)
勉強ができない人は、教師が黒板に書いたことを、そのままノートに書き写すだけだ。これは、別に授業を聞いていなくたってできる。ずーっと他のことを考えながら授業を聞いていても、教師が板書をした時だけ、そのままノートに写せばいいのだ。これは、非生産的な作業である。脳に情報を入れていない。おまけに、きれいにノートを取ったりなんかしていると、“ちゃんと授業を聞いていた”ような錯覚を覚えるから困る。

 

■勉強ができる人は一度脳にインプットしてから、アウトプットとして板書を写す(B)
勉強ができる人は、教師の言っていることを一度脳にインプットしてから、アウトプットとしてノートに板書を書く。
これは、なかなか難しい作業である。まず、教師の言うことを注意深く聞いていないといけない。集中力が必要だ。それから、予習をしていないという前提で、新しいことを即座に脳へインプットして、咀嚼していかなければならない。
大変な作業に思えるが、毎授業やっていればおそらく慣れるのだろう。この手法でノートを取っていれば、授業中だけでも膨大な情報が脳に一度取り込まれる。

■復習時に生まれる圧倒的な違い
このノートの取り方で生まれる大きな違いは、復習時にある。勉強が出来ない人は、授業中に教わったことに対しての脳の回路ができていないから、ほとんど新しいことを復習で勉強するハメになる。
それに対して勉強ができる人は、一度授業中に脳にインプットしているので、さらっと教科書を読み返したり、問題を解いたりすれば思い出せる。
一度覚えた情報よりも、一度忘れてまた思い出した記憶の方が定着することは、最近の学説では常識となっている。
この二者が、テスト前に同じ時間勉強したら、どちらが良い点数を取れるのか。答えは明白だろう。

 

■この考え方はビジネスにおいてこそ必要
実は学生時代、私も勉強ができない人のノートの取り方をしていた。だから、テスト前は苦労した。すべてを一から勉強し直していた記憶がある。しかし、最近ようやくノートの本来あるべき取り方に気づいて、それからは勉強することが楽しくなった。
そして、このノートのとり方は、ビジネスシーンにおいてこそ必要だと思っている。というのも、仕事では会議などでメモをすることが多いが、やはり一度脳に入れていないと、後でメモを見返した時にいったい何のことなのかわからなくなる。時間的制約の多いビジネスシーンでこそ、このノートの取り方の意味に気づくことができたのだ。

 

■日本の教育は講義スタイルのままでいいのか
このノートの取り方の違いに気づくと同時に、私は日本の教育における「講義スタイルの限界」について考えた。現状の教育手法でも、できる子はできる。しかし、できない子は全然できない。それは、講義スタイルという受動的な授業に対して、能動的になる生徒とそれを受け取らない生徒が出てきてしまうためだ。授業を受け取らない生徒は、板書を写して満足してしまう(あるいは、ノートを取ることさえ放棄する)。そして、置いて行かれた生徒は、置いてけぼりのままだ。
アメリカの教育のように、先生が中心となって、生徒や学生がわいわい意見や質問を投げかける全員参加型スタイルは、理想だと思う。しかし、日本の国民性を考えると現実的ではない。
私が思うのは、もっと自習型の教育が広く認知されてもいいのではないか、ということだ。極端な話、自分で教科書を読んで、問題を解いて、わからないところを質問するというスタイルだ。少なくとも、私にはそのやり方が合っていたように思える。中学生ぐらいから、自習型の講義は可能であると思う。
確かに、講義スタイルは、「授業をしている」感がある。昔ながらの教育である。しかし、教え方ももっと多様化していいのではないだろうか。

と言いつつ、義務教育という制約がある中での差別化を図るのは難しいだろうな、と自己完結してしまったが。