さようなら、憂鬱な木曜日

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さようなら、憂鬱な木曜日

サラリーマンの投資ログなど

「他人の誕生日なんて、全然おめでたくない」 レストランでの迷惑なバースデーサプライズ

生活

友人や恋人と、レストランや居酒屋で食事をしたり話をしながら過ごしていると、急に照明が暗くなり、「Happy Birthday to you~♪」とミュージックが聞こえてくる。そして、店員が離れた席の方に近づいていき、バースデーケーキをプレゼントしている。そのグループは「◯◯子オメデトー!」などと言って盛り上がり、祝われた方の子は感動した様子で感謝の意を表している。
そして、それを取り囲む私たちは、それをぼーっとみつつ拍手をし続けている。そもそも真っ暗闇で会話を続けることなど不可能に近い。彼らに目線をやりつつ、力のない拍手を続けるしかないのだ。
私はこの場面に遭遇するたびに、本当に哀しくなる。色々なことに対して呆れてしまう。なぜ見ず知らずの他人の誕生日を祝わなければならないのか。

 

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■せっかくの会話や雰囲気が台無しになる
この一連の流れで私が最も気にしているのは、「せっかくの会話や雰囲気が台無しになり、おまけに数分間が犠牲になる」ということだ。どんなに会話が盛り上がっていたとしても、真っ暗になった瞬間、そこでシャットアウト。雰囲気だってゼロに戻る。完全に冷めてしまうのだ。そして、どこの誰だかわかりもしない人間の誕生日が祝われている様子をほぼ強制的に見物させられる。
これは仕事ではない。おそらくほとんどの人が、余暇としてそのお店での食事や会話を楽しんでいる。結局のところ、諸悪の根源はその制度を導入しているそのお店にあるのだろうが、私はそのサービスを利用して他人の時間を奪う彼らに対して、どうしても批判的な目を向けざるを得ない。
私たちの数分間は、強制的にあなたたちに捧げなければならないのですか。

 

■誕生日は祝われるのではなく、親に感謝の気持ちを伝える日にするべき
私はそもそも誕生日というものが、そんなにおめでたいことだとは思わない。日常的に繰り返される「お誕生日おめでとう」という文化が全然理解できない。
例えば、「結婚20周年おめでとう」とか、「勤続30年おめでとう」とかなら理解できる。続けてきたことに対する労いや功績を称える意味があるからだ。しかし、誕生日というのは、生きていれば必ず1年に1度はやってくるものだろう。それを、パーティなどを催してプレゼントをあげたりしてまで祝ってあげる必要があるのだろうか。
冒頭の飲食店でのサプライズバースデーサービスはおそらく欧米のノリを日本が導入したのだろう。しかし、日本では正直不適切だと思う。やるなら、身内だけでやれ。
私は祝うのも嫌いだし、祝われるのも嫌いだ。だから、誕生日を聞かれたら、嘘の誕生日を言ったりしていた時期もあった。別に私の誕生日など、他人に祝われるいわれもない。私が、両親に対して、感謝の気持ちを持てばいいだけのことだ。

だから、誕生日というのは、成人したら、親に対して産み育ててくれたことへの感謝の意を表する日にするべきではないだろうか。1年に1度、「育ててくれてありがとう」。誕生日に祝われるより、こっちのほうがよっぽどしっくり来る。


他人の誕生日を祝わなければ頭のおかしい人、という同調圧力
そして、こんな考え方を持っているにも関わらず、私は実社会では、他人の誕生日を祝ったりしている。特に、所属するグループ内で誰かが誕生日になり、それを祝おうとする雰囲気が生まれると、そこからはみ出さないようにおめでとうオーラを出しつつ祝福している。それはなぜか。
ここで、「いや、あなたの誕生日なんて、私にとっては何の価値もないし、全然おめでとうだとも思わないので、勝手にやっててください。」と本音をぶちまけてしまうと、おそらく私は完全に“危ない人”のレッテルを貼られて、そのグループからはみ出してしまう。それが怖くて本音を言えないのだ。なんという小心者!
しかし、現実問題として、他人の誕生日を祝わなければ頭のおかしい人、という同調圧力は耐え難いものがあるし、ちょっと異常だろうという感じがする。


大人になっても誕生日おめでとうやってる人は、恥ずかしい。