さようなら、憂鬱な木曜日

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サラリーマンの投資ログなど

3分でわかる田中角栄という人物とその魅力について

3分でわかる政治経済と時事ニュース 3分でわかる政治経済と時事ニュース-田中角栄

今、本屋へ行くと「田中角栄」に関する本がたくさん平積みされています。ここへ来て、田中角栄という政治家の凄さ、そして人間的魅力が再度注目を集めています。

私もこの田中角栄ブームで角栄の魅力を知ったのですが、その行動力、先見性に惹きつけられました。特にその類まれなるリーダーシップは、現代の政治家にもっとも必要なものとして私の眼には映りました。

私が物心ついてから見てきた政治家としては、自民党の小泉純一郎元首相がもっとも印象的なリーダーシップを発揮していましたが、おそらく田中角栄はそれ以上の強い印象を世に解き放っていたのではないかと想像しています。

「3分でわかる」と銘打っておいてこんなことを言うのは恐縮ですが、田中角栄という政治家は到底3分で語れるような人物ではありません。その魅力を語れば、いつまで経ってもスクロールが終わらない記事になってしまうでしょう。

角栄の生き方、考え方は、現代に生きる私たちにとっても、非常に有用で貴重です。僭越ながら、この記事で、田中角栄に対して、少しでも興味を持っていただければ幸いです。

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もともとは土建会社の社長だった

角栄はもともと土建会社の社長でした。田中土建工業株式会社というその会社を、角栄は年間施工実績で全国ベスト50になるほどまでに育て上げました。

角栄が政治家になるきっかけはある縁から生まれます。戦後に行われる選挙で、会社の顧問をやっていた大麻唯男に頼まれ、新党である進歩党へ300万円の献金をし、その流れで「君も選挙に出ないか」と誘われたのでした。

角栄はその気になり立候補しましたが、その選挙は他人任せであった上、選挙区から候補が乱立したために落選してしまいました。

しかし、そのすぐ1年後にまた総選挙があり、今度は自分で選挙活動を仕切り、「若き血の叫び」というキャッチフレーズを掲げて演説もしっかり行った結果、新潟3区で初当選しました。

コラム「三国峠を切り崩して、佐渡と陸続きにする」

田中角栄の大胆な発想力は、当時の演説から発揮されていました。

角栄の地元新潟は、日本海からくる季節風が三国峠にぶつかる構造で、毎年大雪に悩まされていました。雪の季節は、男たちは新潟から離れて出稼ぎに出なければならなかったのです。

そこで角栄は「三国峠をダイナマイトで吹き飛ばせば、越後に雪は降らなくなる。出てきた土砂は日本海に運んで、佐渡と陸続きにする」と主張しました。

荒唐無稽な選挙演説ですが、新潟の人たちが惹きつけられるのもわかります。

地元愛が強かった角栄は、この新潟3区での強力な地盤を武器に政界へ進出していきます。「越山会」と呼ばれた田中角栄の後援会は、その後も田中角栄の政治活動を大きく後押ししました。

 

30歳で法務政務次官に就任

田中角栄が30歳の時、第二次吉田茂内閣にて、法務政務次官に就任しました。これは、異例の抜擢でした。吉田茂は、若いながらも党内でスバズバ発言する角栄を見て、非常に興味を抱いていたようでした。

吉田茂が角栄をからかって「君は自分の出生届を自分で出しに行ったそうだね」と問うと、角栄が「どうしてそれを知っているのですか?」と返しました。すると、吉田は大爆笑で、その時に吉田の心を捕まえたと思った、と後に角栄が語っています。

コラム コンピューター付きブルドーザー

田中角栄のあだ名はいくつもありますが、そのうちでも最も印象的なもののひとつに「コンピューター付きブルドーザー」という異名があります。

これは六法を暗記していたと言われる角栄の頭脳と、やると言ったら徹底してやり抜く実行力を形容して付けられたものです。

数字にもめっぽう強く、国会答弁でも官僚の力を借りることなく、しっかりと客観的な数値で示しながら議論を進めていました。

コラム 33件の法律を議員立法で成立させた

さらに特筆すべきは議員立法の数です。多忙を極める国会議員が議員立法をするケースは珍しく、ほとんどの政治家が官僚頼りの中、田中角栄はなんと33件もの法律を議員立法で成立させました。ダントツのトップ記録です。

そもそも立案自体、法律の深い知識がなければ難しく、さらにはその法律を成立させるとなると、並大抵のことではありません。それを33件もやってしまいました。

その知識、発想力、エネルギー、さらには交渉術、根回し、すべてにおいて脱帽です。

 

戦後初の30代で大臣へ

その後も着実に力をつけ、第二次岸信介内閣にて戦後初の30代で大臣に就任しました(郵政大臣)。

当時、テレビ局の免許は郵政省に交付権利があったのですが、田中角栄は今後訪れるであろうテレビ時代を予見して、新聞社とテレビ局の整備を行いました。

読売新聞=日本テレビ
毎日新聞=TBS
産経新聞=フジテレビ
朝日新聞=テレビ朝日
日本経済新聞=テレビ東京

皆さんご存知のキー局系列は田中角栄が作ったのです。

 

池田内閣で大蔵大臣に就任

その後も自民党幹部などに就任し、党内での発言力も高まってきた角栄ですが、44歳の時、第二次池田勇人内閣で重要閣僚である大蔵大臣に就任します。

現在の財務省である大蔵省は、官僚のエリートが集う組織です。小学校卒の田中角栄がトップになったと聞き、最初は官僚たちも馬鹿にしていたようですが、就任時のスピーチで、角栄は大蔵省エリートたちを一気に虜にしてしまいました。

「私が田中角栄だ。小学校高等科卒業である*1。これから一緒に仕事をするには互いによく知り合うことが大切だ。我と思わん者は誰でも大臣室に来てほしい。上司の許可はいらん。出来ることはやる。出来ないことはやらない。しかしすべての責任はこの俺が取る。以上」

現代において、責任逃れや保身に走る政治家をニュースで多く見てきた私にとって、このスピーチは心に響くものがあります。まさに大物です。

 

コラム 多くの人が虜になった田中角栄の人心掌握術

角栄は、どんなに下っ端でも官僚一人ひとりの名前と家族構成を覚えており、「○○君、今年は下の子が中学校入学だな」と話しかけ、官僚の心を掴んでいきました。大臣に気にかけてもらえることが、嬉しくないはずがありませんからね。

それでもどうしても名前を思い出せないときは、「君、名前はなんだったっけ?」と聞くのだそうです。相手が「○○です」と苗字を答えると、「苗字なんか知っている。下の名前は何だ?」と聞き返すのです。こうすると、聞かれた相手は名前を忘れられたとは思わない。そんなところにも角栄の心遣いが表れています。

また、大蔵省時代にはこんなエピソードもあります。

ある日、大蔵省が間違った税率表を発表してしまい、役人たちは青ざめ、課長が辞表を持って角栄の大臣室にやってきました。しかし角栄は、「そんなことで辞表なんぞ出さなくてもいい」と言って、翌日改定表を持ち出して、「先日の税率表には間違いがあります」と言って訂正してしまった。野党もマスコミも何も言わなかった。大蔵省の役人は、さらに角栄に懐くようになりました。

 

『日本列島改造論』を発表

田中角栄のもっとも重要なキーワードの一つに『日本列島改造論』があります。これは、日本列島をもっと機能的に使うことを掲げた政策綱領であり、同タイトルで本も出版しています。政策論としては91万部を売り上げ、異例のベストセラーとなりました。

角栄は、このまま成長が進めば「東京一極集中化」になることを予言していました。さらには、近い将来高齢化社会になり、社会保障費が国費を圧迫することになるのもわかっていました。

だからこそ、狭い国土を有効に使って、国民所得を底上げしようとしたのです。その施策として、田中角栄は以下のことを計画しました。

  • 全国を新幹線で結ぶ
  • 地方にも高速道路を伸ばす
  • 各県に飛行場を作る

この計画は徐々に進められ、地方への移動はそれ以前よりも遥かに時間短縮され、スムーズになりました。

また、本著において、角栄はコンピュータ時代の到来も予言しています。

職場でも家庭でもボタン一つでコンピュータを呼び出すことができるデータ通信。鍵盤を操作すると情報センターやデータバンクにつながって、「日本の国土面積はどのくらいか」「IMFとはどういう機関か」という知識を求めることができる。

現代のパソコン、スマホ時代そのままですね。

 

ついに第64代内閣総理大臣に就任へ

そして『日本列島改造論』を引っ提げて、54歳の時に第64代総理大臣に就任します。

驚くべきは、総理大臣就任の2か月後に、それまで国交が断絶していた中国に、現職総理大臣として初めて訪問し、日中で共同声明を発表し「日中国交正常化」を成立させてしまったのです。それまで歴代の内閣が築き上げた下地があったにせよ、このアメリカより早い日中国交正常化は田中角栄首相の大きな功績の一つとして残っています。

確か、私が高校の時に政治経済で学んだ教科書には、田中角栄への言及はこの部分のみだったと思います。

 

金脈問題で批判され、辞意表明へ

その後も狂乱物価、オイルショックなど波乱の時代において総理大臣としての職務をこなしていた角栄ですが、56歳の時に文芸春秋が「田中角栄研究」と題した金脈問題を追及する特集を組んだことから、田中金権政治への批判が高まってきます。

これは、角栄ファミリー企業が約4億で買った土地が、公共事業により資産価値が時価数百億まで上がったことを指摘したものでした。

国会でも金脈問題に対する追及は止まらず、角栄の愛人を重要参考人として国会に召集する話も浮上し、ついには角栄の娘がその追及に耐え切れず自殺未遂をする事態にまで陥り、やむなく田中角栄総理大臣は辞意を表明しました。

 

コラム キングメーカー、田中角栄

総理大臣の職を辞した後も、角栄の力は健在で、裏で政界を操っていたことから「キングメーカー」と呼ばれていました。

第71代内閣総理大臣の中曽根首相は田中角栄の意向を広く聞き入れ、内閣の要である官房長官に、田中派の後藤田正晴を据えるなどしたことから、「田中曽根内閣」と揶揄されたりもしました。

なぜそこまで角栄が力を維持し続けられたのかと言うと、田中角栄を支持する議員が自民党内で多かったことが挙げられます。お金だけではなく、角栄の人望が失脚後も人を離さずにいたのでしょう。

 

ロッキード事件表面化

田中角栄を語るキーワードとして避けられないのが「ロッキード事件」です。

角栄はロッキード事件が表面化した58歳の時に、為替法違反の疑いで東京地検に逮捕されました(別件逮捕)。その後、受託収賄と為替法違反で起訴されました。

事件の概要は以下の通りです。

航空機「トライスター」の販売不振に悩んでいたロッキード社が、航空会社に同機を売り込むために、各国政府の要人に多額の賄賂をばらまいていました。そのルートの一つに、販売代理店だった丸紅を通じた田中角栄への5億円の賄賂があった、というものです。*2

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その後、長い長い裁判闘争に入ります。角栄は「記憶にございません」と言って、容疑を否認し続けました。

この事件については、諸説あり、司法の問題点など多くことが指摘されていますが、本記事においては言明を避けます。(最終的に、田中角栄の有罪判決が確定しました)

ロッキード裁判が進む中でも角栄は議員活動を続けていましたが、67歳の時に脳梗塞で倒れ、車椅子生活を余儀なくされます。

72歳の時に、正式に政界引退。75歳でその命を終えました。

 

最後に

こうして田中角栄の政治家人生を振り返ってみて思うのは、「もし角栄の体調が万全だったならば、今の日本はどうなっていただろうか」ということです。

金脈問題で失脚した後も、角栄は復権を着々と狙っていました。それは、体調の悪化によって叶わぬ願いとなってしまいましたが、もし第三次田中角栄内閣があったとすれば、日本列島改造計画はさらに推し進められ、今の日本とは少し違う環境になっていただろうと思っています。

それが、今より良くなっているかどうかはさておいて、どんな日本になっていたのか非常に興味のあるところです。

今後、田中角栄のような政治家、総理大臣は出てくるのか。

未来の日本を生きる一人の国民として、彼のような行動力と人望、リーダーシップを持った政治家の出現を待望しています。

(文中は敬称を省略しています)

 

参考サイト・参考文献

「天才」著:石原慎太郎

「戦後最大の宰相 田中角栄」著:田原総一朗

「まんがでわかる田中角栄の人を動かす力」別冊宝島編集部

田中角栄 - Wikipedia

ロッキード事件 - Wikipedia

大いなる幻影 その男、田中角栄 - YouTube

*1:現在の中学校卒業に相当

*2:ロッキード事件は田中角栄ルートだけではなく、大物右翼の児玉誉士夫を通じて軍用機P3Cを購入させるさらに巨額の賄賂ルートもあったのですが、田中角栄の収賄の方が大きく報道されました。