さようなら、憂鬱な木曜日

読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

さようなら、憂鬱な木曜日

サラリーマンの投資ログなど

子供のころは旅行に連れて行ってもらうより、本を買い与えてほしかった

エッセイ エッセイ-子供のころの旅行

旅行は楽しい。年齢を重ねるごとに、そう思う度合いが強くなってきた。近頃は国内各地を回っている。

旅行地で目につくのは、多くの家族連れだ。小さなお子さんを連れだって、忙しなく動く両親の姿だ。ベビーカーに赤ちゃんをのせて、あるいは幼児と手をつないで、周りに気を使いながら移動している。ごく自然な光景である。

しかし、私はこの前、ふとこう思った。

この子たちは、いったいどれだけこの旅行を享受しているのだろう?

 

子供のころの旅行の記憶はほとんど残っていない

私がそう思った理由は、個人的な体験と経験からである。

自分の幼少期は、景気の良い時代と重なったこともあって、たくさん旅行に連れて行ってもらった(らしい)。国内・海外問わず、両親からあそこへ行った、あの時はああだった、など思い出話をたくさん聞いた。その旅行の多くは、小学校低学年以下だったと思う。

しかしながら、私にはそれらの旅行の記憶がほとんど残っていないのだ。

単純に記憶力が悪いだけなのかもしれないが、なんとなくおぼろげに旅行地のワンシーンだけ画像で頭に残っているものもあるが、ほとんど思い出せない。誰と行ったか、どこへ行ったのか、何をしたのか。思い出話を聞いても想起されることもない。

 

旅行を楽しむための「日常性」と「一般常識」

そういう経験もあって、私は「小学生以下の子供にとって、旅行というのは有益なのだろうか」と思うようになった。

旅行の楽しさの一つは、「刺激」にある。

新しいものに触れたり、珍しいものを見たり、現地の人とのコミュニケーションも刺激になる。

しかしそれは、自分の中で「日常性」や「一般常識」が備わっていてこその刺激だと思う。

f:id:goodbyebluemonday23:20160603234913p:plain

「日常性」が身体に染みついているからこそ、「非日常性」の刺激が楽しいのであるし、最低限の「一般常識」があるからこそ、目の前にあるものがどんなものなのか、それを知ることで知的欲求を満たし刺激になる。

小学生以下の子供に「日常性」や「一般常識」は備わっているか。

私が考えるに、彼らにとっては毎日が「非日常」である。すべてが新しい。自分の住んでいる範囲だけでも、十分すぎるくらいに刺激があるだろう。

「一般常識」については言うまでもない。6歳の子供に「ここは新選組の屯所だったんだよ」と言っても、のれんに腕押しだ。

f:id:goodbyebluemonday23:20160603234923p:plain

そういうわけで、旅行特有の「刺激」は、小さな子供にとっては大人よりも効果の薄いものになってしまっているのではないか、と感じている。

 

子供は旅行で「解放感」を得られるか

旅行の良さのもう一つに、「解放感」がある。

現代社会を生きる大人たちは、いろんなことに縛られ、ストレスでがんじがらめになっている。旅行は、そんなしがらみを取っ払い、すべてを忘れ開放的な気持ちになれる。その「解放感」が心地よい。

しかし、子供はどうだろう。毎日毎日、強いストレスを感じながら生活を送っている子供がいるだろうか(いるとすれば、それはそれで問題である)。

すべての子供がストレスゼロで何も考えずに生きていると言うつもりはないが、大人ほどは余計なことを考えずに、生きているはずだ(そう思いたい)。

そうなると、旅行先で得られる「解放感」というのもあまりないのではないか、と思う。

都会のコンクリートで鬱屈している子供が、大自然に行って開放的になることはあるだろうが、それは旅行でなくても大きな公園に行けば事足りる。

つまり、子供にとっての旅行は「お出かけの延長」であって、何も特別なことはないのではないかと思う。

 

 

子供のころは本を買い与えてほしかった

私はこれまで、「子供を旅行に連れていくことの意味」が、子供の感受性を豊かにし、未来の可能性を広がることに寄与するのだと思っていた。そのような意味において、子供を旅行に連れていくことは、良いことなのだと思っていた。

しかし、実際にたくさん旅行をした私の感想としては、「そこまで自分の人格形成に影響しているだろうか」という疑問が湧いている。

個人的な感想としては、成長のため・教育のためを思うのであれば、もっとたくさんの本を買い与えてほしかった。私の両親はあまり本を読まなかったので、子供時代にたくさんの本を読んだという記憶がない。

あれほど旅行に連れていってくれるなら、その一回分の旅行代金を使って、「偉人伝シリーズ」や子供向けの「百科事典」や「ズッコケ三兄弟」シリーズを、部屋の本棚に備えてほしかった。それこそ、その後の人格形成に大きく影響しただろうと思う。

高校生になって読書の楽しさに目覚めたときに、それまで本を読んでこなかったことに強く後悔した気持ちは、いまだに忘れることができない。

 

「旅行の意味」を考えることの無益性

ここまで、子供を旅行に連れていくことの「意味」について考えてきたが、多くの人にとって、旅行に行くことに「意味」なんてないのだろう。楽しいから行く。それだけだ。それで良いし、それが健全である。

この記事は、私が旅行先で見た子連れに思ったことのイメージを膨らませただけにすぎない

子供と一緒に旅行へ行くことを否定するわけでは決してないし、それこそ家族のコミュニケーションの機会として素晴らしいと思う。普段仕事で忙しい父親が、親子の会話をする絶好の機会、などという理由で旅行に行くのも素晴らしいことだ。

そもそも、家族旅行を子供目線で考え、子供にとっての「旅行」という視点で記してきたが、家族旅行は子供だけのものではない。別に、大人が楽しんだっていいのだ。

大人が楽しむための旅行に、子供を連れてきているだけ、という解釈もあっていいし、それは別に非難されることでも何でもない。

疲れてヘロヘロになっている子供を大人のわがままで連れまわしたりするようなことがない限り、それは子供に害のないことだろう。子供が生まれるとついつい「子供が主役」になってしまうが、親だってまだまだ人生道半ばだ。旅行を楽しんだって文句は言われまい。

子供にとっての旅行がどんな意味であろうと、大人は旅行を楽しむ権利を持っている。

 

いつ頃から旅行は「旅行」としての意味を持ち始めるのか

それでは、いったいどれくらい成長すれば、「旅行」本来の楽しさを享受し、その有益性を浴びることができるのか。個人的な感覚としては、思春期を迎えて少し経った後、小学校高学年から中学生以降だろうと思う。

その頃になると、ほとんどの子が挫折や絶望、世間の理不尽さ、無為を経験して大人への階段を上り始める。

だからこそ、旅行において、「新しい世界」を見て大きな刺激を受けることができる。思春期における旅行と、完全な大人になってから行く旅行は、また違った意味を持つことになるだろうが、きっと重要な意味を持つことに違いはない。

その頃になると、子供たちは親と旅行に行くことを疎ましく思ってしまいがちなのだが。