さようなら、憂鬱な木曜日

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サラリーマンの投資ログなど

「絶対にお昼は誰かと一緒に食べたい」派 vs 「一人でゆっくり食べたい」派|社会人のランチ問題

生活 生活-社会人のランチ問題

時計の針が正午に近づくと、みんなが席を立ち始め「どこ行く?」などと話しながら連れ立って会社を出て行く。ビジネス街ともなると、お昼どきはサラリーマンの集団でどこのお店も一杯になる。

私の勤務するオフィスでも、お昼になると、誰かが誰かを誘ってお昼に行く光景が多く見られる。どこの会社でも同じような光景だろう。

私は、世の中には2種類の人間がいると思っている。それは、「絶対にお昼は誰かと一緒に食べたい」派と、「お昼は一人でゆっくり食べたい」派だ。

感覚的には、前者の方が多数派と考えられる。しかしながら、後者も少なからず、しかし必ず一定数いるのだ。

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■「お昼は一人でゆっくり食べたい」派

私は、「お昼は一人でゆっくり食べたい」派である。なぜなら、仕事における昼休みというのは、「頭をビジネスモードにしながら自分の好きなことが出来る時間」だからである。

頭がビジネスモードになっているので、難しい政治や経済のニュースを取り込みやすい。お昼ごはんをささっと食べて、新聞を読んだり、ネットニュースを漁ったり、読書に耽りたいのだ。

「そんなもの家に帰ってからやればいいだろ」と思うかもしれない。しかしながら、自宅はリラックス空間でありたい。難しいことなんて考えたくない。

だからこそ、「ビジネスモードの自由時間」というのは、政治経済金融関係のニュースを仕入れ、理解するためのとても貴重な時間なのだ。

 

■自由に気兼ねなくお店を決められる幸せ

それから、一人で自由にお昼ごはんを決められるというのは、幸せである。「今日はあそこのつけ麺に行ってみよう」「この前通ったあの道に美味しそうな海鮮丼があったなあ」などと考えながら仕事をするのは楽しい(←集中しろ)。

誰に気兼ねすることもなく、自分の好きな店で自分の好きなものを食べられる。

誰にも邪魔されず、気を遣わずものを食べるという孤高の行為。この行為こそが、現代人に平等に与えられた、最高の癒しと言えるのである。

(『孤高のグルメ』より)

 誰かと一緒に行くと、完全に自由という訳にはいかない。上司と行く時などは、メニューを考えるときにも、「上司より高いものを頼むと、ちょっと失礼かな…」と考えてしまったりする。

余計なしがらみが絡みついたまま、お昼の時間を過ごすのは、とても息苦しい。

 

■誰かと食べに行くのは「イベント」であって「日常」にはしたくない

別に私は、頑なに一人で食べる、ということを突き通しているわけではない。

当然、誘われれば誰かと一緒に食べに行くこともあるし、思い立って誰かを誘って食べに行くこともある。しかし、多くて月に3,4回。あくまでそれは“イベント”であって“日常”ではない

毎日誰かと一緒にお昼を食べなければいけない、という束縛には耐えられない。お昼休みも仕事になってしまう。

別に会社の同僚や、上司や部下が嫌いなわけではない。しかしながら、自分の自由時間を割いてまで、和気あいあいと楽しく触れ合いましょう、という気持ちにはなれない。

 

■「絶対にお昼は誰かと一緒に食べたい」派

私のような「孤独のランチ」派に対して、「絶対にお昼は誰かと一緒に食べたい」人たちというのは必ずいる。

彼らは、ご飯というのは「誰かと一緒に食べるもの」だと当然のように思っている。

毎回同じメンバーで行く人もいれば、毎日違った人と行く人もいる。

彼らがどのような思考回路で毎日連れ立ってお昼に行くのかは、想像でしか理解し得ないが、考えるだけでもいくつかのメリットがある。

 

■「ランチの共有」は人間関係を円滑にする

まず思い浮かぶメリットは、「お昼ごはん」という行動を共有することで、円滑な人間関係が構築され、仕事がやりやすくなる場合がある、ということだ。

人間というのは感情の動物なので、仲がいいと仕事がやりやすい(うまくいく、というわけではないが)。仲が良くないと、仕事がやりにくい場合がある。

私からしてみれば、そういう人間関係で仕事のやり方を変えるのは、ビジネスパーソンとしてどうかと思うが、けっこうそういう人たちに会ってきた。

それから、そのような人間関係が構築されることで、社内のいろんな事情について通じることができるようになるだろう。おそらく、同じ会社の人間同士がお昼ごはんを食べて、会社の話題が出ないというのは常識的に考えられない。お互いの持つ会社の情報を共有できる、ということはメリットと言えるのかもしれない。

(私は会社内のそういう噂みたいなものは、ほぼ価値がないと思っているので、まったくメリットだとは思わないが)

 

■「毎日違う人と食べに行く」派はスーパーマン

それから、毎日違う人と食べに行く人は、当然ながら「人脈」が広がっていく。

「人脈がすべて」などと気持ち悪いことを言うつもりはないが、人脈は持っていて損はないものである。いろんな場面で生きてくる可能性は高いと思う。

私はこの「毎日違う人と食べに行く」派はすごいと思っている。社交性に秀でたスーパーマンだ。

前述した「絶対にお昼は誰かと一緒に食べたい」派の中でも、「毎日同じ人と食べる」派閥に関しては、別に否定はしないけれど、ある程度惰性みたいなものもあるのだと思う。話題だってマンネリ化するだろう。

しかし、この「毎日違う人と食べる」マンは、毎日が刺激の連続である。毎日、違う視点で話をして、また違った視点で話を聞ける。人脈とともに考え方の視点も広がっていくだろう。

「毎日違う人と食べる」マンはお昼休みを「休み」と考えていないのだろうか。私からしてみれば完全に仕事である。すごいエネルギーだ。

 

■「お昼ごはん問題」は価値観を色濃く反映させる

この「お昼ごはん問題」を考える時に面白いのは、「価値観」や「人生との向き合い方」が色濃く反映されることである。

おそらく、「絶対にお昼は誰かと一緒に食べたい」派からしてみれば、私のように一人で食べる人のことを「寂しいやつ」だとか「変わったやつ」だとか「頭のおかしいサイコ野郎」だとか思っているのかもしれない。

一方で、「お昼は一人でゆっくり食べたい」派からしてみれば、集団でお昼に外出する人たちを涼しい目で見ているわけである。

結局のところ、この問題において学ぶべき教訓は、「他人の価値観を尊重する」ということが、人間関係を成り立たせる最も大事なことのひとつなのだ、ということだろう。

一派はもう一派を尊重して、それぞれが楽しいと思うことをやればいい。それぞれのフィールドで、活躍すればいいじゃないか。

「お昼ごはん問題」は、「飲み会大好き」派と「早く家に帰りたい」派の対立問題を考える上でも、非常に重要なテーマなのだ。